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兼六園は、前田家が加賀の地を治める前の時代には、蓮池と呼ばれていました。

加賀の地は、織田信長に敗れるまで、約90年間、一向一揆に支配され、豊臣秀吉の時代になり、前田利家が加賀を治めます。

兼六園は、前田家が加賀藩主だった江戸時代に、徐々に整備されたものです。

兼六園の前期(兼六園になる前)は、金沢城を守る総構えとして機能し、その後は、藩主の庭園でした。

兼六園の後期は、兼六園の名前が付けられ、霞ヶ池、栄螺山、園内を流れる川などが作られました。

1872年(明治7年)、兼六園は一般に解放され、誰でも入園できるようになります。

前田家より前の時代

前田家より前の時代

前田家が、加賀の地を治める前の時代には、兼六園というものは存在しませんでした。

前田家より前の時代、加賀の地は約90年にわたり、一向一揆(浄土真宗本願寺の信徒による)によって、支配されていました。

織田信長は、加賀の一向一揆を破り、金沢城(当時は本願寺の拠点)に佐久間盛政が入ります。

その後、豊臣秀吉の時代になり、前田利家(前田家初代)が金沢城に入ります。

その当時、今の兼六園がある場所は、湿地帯で蓮の花が咲いていたことから、蓮池(はすいけ)と呼ばれていました。

前田家の時代(江戸時代)

前田家の時代

当時、織田信長に仕えていた前田利家は、石川県の能登地方を治めていました。

豊臣秀吉の時代になり、利家に金沢の領土が与えられ、1583年(天正11年)、金沢城に拠点を移します。

その後、加賀藩主、前田家の統治がはじまり、14代慶寧(よしやす)の代まで、兼六園が作られていきます。

兼六園という名前が付けられ、本格的な庭園が作られるのは、12代斉広(なりなが)の時代からです。

兼六園の名前が付く前の時代を「兼六園の前期」、名前が付けられた後の時代を「兼六園の後期」として、以下に説明します。

兼六園の前期

兼六園の前期

利家は、豊臣政権の末期に、徳川家康と並んで、政権の運営を担っていた五大老の一人でした。

秀吉が亡くなった後、利家は、政権を握ろうと暗躍する家康と対立します。

その後、家康が天下をとり、加賀藩は、102万石という高い石高を得ますが、常に徳川幕府を警戒していました。

そのため、兼六園の前期のはじめは、金沢城を守る防御としての役割があり、それから徐々に庭園として整備されていきます。

3代利常(としつね)の時代

3代目利常の時代

利常の時代には、今の兼六園の東側(金沢城の反対側)に、加賀八家(1万石を越える加賀藩の家臣)の屋敷がありました。

この屋敷近くは、金沢城の防御としての総構え(お城の外周を石垣や土などで囲むこと)になっていました。

今の兼六園の山崎山、氷室跡がある辺りは、この土の堀で作った総構えの跡が残っています。

5代綱紀(つなのり)、6代目吉徳(よしのり)の時代

5代目綱紀、6代目吉徳の時代

5代目綱紀の時代には、瓢池近くに蓮池御亭(れんちおちん)と呼ばれた、お庭と座敷が作られ、お茶会や宴が行われていました。

6代目吉徳の時代には、老朽化した蓮池御亭を修復、一新し、紅葉の見物やお茶会などが催されていました。

11代治脩(はるなが)の時代

11代治脩の時代

11代治脩になる前の、1759年(宝暦9年)には、金沢城下で大きな火事があり、蓮池御亭も被害を受けました。

治脩は、翠滝・夕顔亭・時雨亭などを作り、今の兼六園の原型となるものを整備しています。

さらに、兼六園の一角に、学問や武術を教える学校を作り、藩を支える人材の育成を行いました。

兼六園の後期

兼六園の後期

兼六園という名前が付けられ、今の兼六園の形が作られたのは、12代斉広(なりなが)になってからです。

前田家は、12代斉広、13代斉泰と続き、14代慶寧になって、江戸時代が終わり、明治時代を迎えます。

12代斉広(なりなが)の時代

12代斉広の時代

12代斉広は、1822年(文政5年)蓮池御亭があった付近に、自分の隠居処となる竹沢御殿(たけざわごてん)を作ります。

この竹沢御殿は、部屋の数が2百、広さが4千坪もあり、大きくて豪勢なものでした。

斉広は、竹沢御殿を作るにあたり、兼六園の扁額(へんがく)を、江戸幕府の第8代将軍、徳川吉宗の孫、松平定信に依頼します。

兼六園を命名したのは、天皇家に仕えた公家のなかでも最高位の摂関家(せっかんけ)が関わっていると言われています。

詳しくは、別ページの兼六園の名前の由来に書いています。

13代斉泰(なりやす)の時代

13代斉泰の時代

12代斉広は、竹沢御殿を作ったわずか2年後の1824年(文政7年)に亡くなります。

13代斉泰は、斉広が作った竹沢御殿を取り壊し、その跡地に、今の兼六園の中心的な存在となる霞ヶ池を作ります。

霞ヶ池を掘った土を利用して、霞ヶ池の脇に栄螺山を作り、兼六園内を流れる川を整備し、本格的な庭園化が進められました。

さらに、斉泰は、母親の隠居処となる巽御殿(たつみごてん)(現在の成巽閣)を作ります。

14代慶寧(よしやす)の時代

明治時代以降

14代慶寧の時に、江戸時代が終わり、明治時代を迎えます。

兼六園は、これまで前田家の庭園であったため、一般人が入ることは出来ませんでした。

1874年(明治7年)に、兼六園は一般に解放され、誰でも入ることが出来る庭園になりました。

1950年(昭和25年)、兼六園は、国の名勝に指定され、その2年後、名勝の中でも特に価値が高い特別名勝に指定されました。

参考文献:
・村上貢、宇佐美孝 「兼六園」(北國新聞社、2013)
・長山直治、「兼六園を読み解く」(桂書房、2006)